ドラキュラ ZERO

 超大作であるかのように大々的な広告が打たれている本作だが、その内容は大作というよりはやりたいことを迷いなくやりきった、お楽しみの詰まった映画だ。上映時間も90分程度と、きっちりまとまっている
 決して大作ではないが、コンセプトがはっきりしており、そのために必要なものは全て揃っている。楽しみ方がはっきりした見やすい映画という印象だ。

 15世紀、トランシルヴァニア。ヴラド・ドラキュラ(ルーク・エヴァンス)。かつてオスマン帝国によって殺人術を教え込まれたが、現在は祖国に戻り、君主として立派に国を治めていた。
 だが、オスマン帝国皇帝メフメト2世(ドミニク・クーパー)が遣わした使者は、非情にもトランシルヴァニアの少年1000人を差し出せと告げた。かつての彼と同じように、殺人のための兵士にしたてあげるためだ。
 息子を守るためにその誘いを蹴ったヴラドは、強大なオスマン帝国に立ち向かうため、伝説に伝わる恐るべき吸血鬼との契約を行う……。

 断っておくべきことは、この映画は史実ものではない。きちんと、原作としてヴラム・ストーカーの「ドラキュラ」がクレジットされている。もっとも、その内容は原作とは大きく違っており、あくまでキャラクターを借りてきた、ということだろう。
 主人公のモデルは、原作ドラキュラのモデルと同様、ワラキア公ヴラド三世だ。串刺し公の異名を持つ彼は、君主の権威を示すため、多くの兵士を串刺しにするという異名で知られている。
 残虐なやり口で有名な彼だが、オスマン帝国の敵として歴史に記されたこともあり、正確なことはあまり伝わっていないという。国内では、国のためによく尽くした君主であったとも言われている。
 本作のドラキュラ公は、こうした「ドラキュラ」と「英雄ヴラド」のイメージを足し、人間味を与えた印象的なキャラクターになっている。

 見所は、なんといっても吸血鬼と化したヴラドによるアクションシーン。常人とはまったく違った身体能力を活かした戦い。1000人は軽くいようかという敵に単身乗り込み、その全てを打倒する、まさに一騎当千である。
 独自のアクションとして、自らの体を何匹ものコウモリに帰る印象的な能力がある。このため、戦場のあちこちに次々に現れ、体勢を崩すことなく闘い続けることができる。
 ド派手な超能力に比べれば地味に思えそうだが、実際に映像にしてみせられれば、その強さは説得力をもって見せ付けられるのである。 実のところ、いくつかのピンチはこの能力で切り抜けられそうな気もするが……。

 特筆したいのは、その衣装。15世紀という時代の雰囲気を再現しながらも、ビジュアルでかっこよさ、トランシルヴァニアの人々の素朴さ、オスマン帝国の力強さなど、キャラクターや世界観をはっきりと表現している。
 特に、主人公ヴラドは二種類の鎧を劇中で着るが、このどちらもがかっこいい。自分が殺人兵器として生きて来た時の記憶と共に封じられてきたドラクルアーマーもいいが、どちらかといえば、吸血鬼になる前から着ている黒い鎧のほうが好みだ。ルーク・エヴァンスには黒がよく似合うと思う。

 物語の核心は、家族や国を守るために悪に身を捧げたヴラドの行く末だ。超人的な力の代償に与えられたある条件が、物語全体をよりスリリングにしている。
 最初の決断は、あくまでそのあとに続く、もっと重大な決断の前振りに過ぎない。本当の悪はどこから現れ、なぜヴラドはそれを受け入れるのか。そうした葛藤が丹念に描かれている。

 しかし、闇の力としてぼやけさせていた吸血鬼を、そのものずばりの姿でカメラの前に登場させては、せっかくの迫力が台無しという気もする。大物中の大物であるドラキュラが、別の吸血鬼の手下になるというのも、いささか卿を削がれるような気がしないでもない。
 全体を引っぱる構成は、むろん「吸血衝動を押さえながら、家族のために奮闘するドラキュラ」であるのに、決断のあとはそれがなくなってしまって、どうにも余談的な雰囲気が拭えない。
 物語としてはカタルシスになるはずの展開が、中盤に備えられているせいか、どうにもクライマックスの盛り上がりに欠けるようにも思う。

 悪をテーマにしながらも、その内面を描き出していく本作。
 ルーク・エヴァンスには「黒が似合う俳優」として、様々な映画でこうしたキャラクターを掘り下げていって欲しい。



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