6歳のボクが、大人になるまで。


メイソン(エラー・コルトレーン)は、6歳の少年。ある時、母(パトリシア・アークエット)、姉サマンサ(ローレライ・リンクレイター)とともに、ヒューストンへと引っ越した。

彼はその地で思春期を過ごすことになる。母と離婚した父(イーサン・ホーク)と週末を過ごしたり、新たな家族や友達と出会い、別れを経験したり。

メイソンは様々なことに直面しながら、、自分の道を進む時へ向けて、成長していく。


と、あらすじで書くことがほとんどないくらい、物語はなんてことのない生活の描写が大半。それでも、この映画は感動的な大作だ。

まず、この映画が一本の作品として成立したこと自体が奇跡的だ。12年もの歳月をかけて、同じ役者を使って一本の話を撮り続けるというのだから。2002年から2013年まで、主役のエラー・コルトレーンが6歳から18歳になるまでを、毎年の夏に数日ずつかけて撮影したという。

そんな撮影手法は誰でも思いつきそうな企画だが、誰もがその困難さに思い当たるだろう。そんな長期にわたって、まず監督自身が同じテーマを保持し続けられるのか。また、回収するのに12年もかかる企画に誰がスポンサードするのか。

そして何より、心変わりしやすい少年を、そんなに長い間同じことに付き合わせることができるのか。もちろん、彼が成長してどんな姿になるのかなど、撮影開始時には見当もつかなかっただろう。


それでも、メイソンは1人の人間として連続性を持って映画の中で主役でありつづける。この役を演じきったコルトレーンはもちろん、同じテーマを貫き、そしてその物語を描き続けたリンクレイター監督を賞賛せずにはいられない。

よくぞ、こんな奇跡的な作品を撮ってくれた。


物語の中で描かれているものは、まさしく原題「Boyhood」が示すとおりの「少年期」だ。

それはもちろん、傷つきやすく移ろいやすい、思春期の美でもある。本作はメイソンが見つめる青い空からはじまる。そんな空のような、澄み切った青い時代を写し取っているわけだ。

だが、それ以上に、少年期は「人が人になるまで」の時期でもある。親とともに育ち、人と交わり、そして自分の道を自分で選び取る。この物語は、メイソン自身がメイソンという人間を作り上げていく過程を描いているのだ。


長い月日を使っての撮影手法そのものが、他の映画では表現しようのない物語世界を作り出している。もちろん、画面の中で登場人物たちは少しずつ、しかし確実に歳を取っていく。メイソンは背が伸びるし、母親は体型が変わってくる。イーサン・ホーク演じる父親は髭を伸ばし、またその思想までもが大きく変わっていく。

もちろん、社会情勢も変化していく。小学生の頃は分厚いアップルコンピューターを使っていたのに、高校生になる頃にはiPhoneを使っている。その時々に流行った音楽やテレビゲームなどで時代性をさりげなく演出するあたりも、心憎いところだ。

この時間の不可逆性こそ、本作の最大のモチーフと言えるだろう。167分にわたる上映の中で、回想はただの一度も行われない。ただ時間は前に進むだけなのだ。


12年の間、脚本が一度も手直しされなかったとは考えにくい。おそらく、社会の変化や役者の成長にあわせて、細かな手直しがされていったことだろう。

それだけに、特に序盤は散文的な構成が目立つ。物語上大きな意味を持っているわけではないシーンなども、どこかランダムに挿入されるのだ。撮影開始段階では、物語の全容も漠然としか見えていなかったためだろう。

そうしたシーンを編集でカットすることもできたはずだが、あえて残されている。それはおそらく、誰もが持っている、「なぜか覚えている景色」を表現しているのだろう。子供の頃の記憶をたどれば、たいして重要ではないのだけどなぜか覚えている、そんな景色までもをメイソンと共有することで、普通ならあり得ないほどの没入感が味わえる。

何せ、6歳の頃からずっと観ている少年だ。およそ14分に1歳ずつ歳を取っていく彼を見守っていれば、イヤでも感情移入してしまう。彼が落ち込んでいるときも、楽しい時も、姉にちょっとイラッとしている時も、父を少し誇っているときも、大して関係があるわけではないんだけど友達からバカにされている人と会ったときも。まさに、彼の人生そのものに立ち会っているのだから。

主人公への共感ではなく、「彼のことを知っている美内としての感動」というのは、今までの映画で決して味わったことのないものだ。おそらく、他に感じられるとすれば、それこそ自分の人生、自分の家族に対する時だけだろう。


成長しているのはメイソンだけではない。徐々に、監督の演出も洗練され、劇映画としての完成度もいや増しに高まっていく。

序盤はどこかドキュメンタリー的に、ひとりの人の人生を写し取っていたのだが、やがて映画としての見栄えが整い、物語がはっきりと浮かび上がっていく。それはそのまま、メイソンが自分の人生に責任を持ち、自分の道を歩み出したことに重なる。

人物の「成長」という、特に肉体的にはイヤでも前に進まなければならない部分をドキュメンタリー的に、「自立」という、自分自身で選ばなければならない部分をフィクション的に描き出す、見事なバランスが本作を成り立たせている。


映画が終わるころには、直線的でありながら多層的な物語の、複雑な感動を味わうことができる。安心と不安、期待と後悔、未来と思い出、それらが全て交わった、妙味としか言いようがない後味が残るのである。

人生そのものを描いた映画であるから、全ての伏線が回収されるわけではない。たくさんの登場人物が、メイソンの前からとつぜん去り、そして二度と現れない。小学校の友達、彼をパーティに誘った女の子、そして一度家族になった彼ら。どうしても気になってしまうが、メイソンにも観客にも、その後を知る術はない。ただ言えるのは、彼らも彼らの人生を生きているのに違いない、ということだけだ。



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