マッドマックス 怒りのデス・ロード

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。タイトルだけで頭のネジが緩んできそうな本作は、企画から完成まで15年の時を要したという。

スタジオカラーの前田真宏を招いてアニメ映画にする企画が頓挫したり、撮影に使うはずだった砂漠が奇跡的な大雨で緑化してしまうなど、実現までにさまざまな紆余曲折があったようだ。

だが、本作には15年もの時間をかけて製作した価値が間違いなくある。

実物の車を走らせているからこその迫力と、語られずとも伝わってくる激しいドラマ。映画を観る喜びが凝縮された一本だ。

これほどの怪物的傑作は映画ランキングに入れることすらためらわれる。これと比べられては、ほかの映画がかわいそうだ。それほどの作品である。


核戦争により文明が衰退し、一面の荒野が広がる未来。

愛車インターセプターと共にさまよう男マックス(トム・ハーディ)は、水源を独占するイモータン・ジョー(ヒュー・キース=バーン)の手下により捕らえられる。

一方、ジョーの配下であるフュリオサ大隊長(シャーリーズ・セロン)は、ジョーの子供を産むために監禁されていた女たちをひそかにタンクローリーに乗せて逃走をはかる。

フュリオサの企みに気づいたジョーは全軍団による追撃を開始。その兵士のひとりニュークス(ニコラス・ホルト)は、いざというとき自分に輸血するため、車両にマックスを縛り付ける。

やがてマックスはフュリオサと合流し、自由を求めて荒野をひた走っていく……。


まずは簡単にシリーズについて解説しておこう。本作は『マッドマックス』シリーズの4作目にあたる。

第一作『マッドマックス』は1979年のオーストラリア映画。「撮影中にスタントマンが死亡している」というウワサが流れるほどの激しいカーアクションと、社会的なテーマを織り込んだシナリオ運びで注目を集めた。

第二作『マッドマックス2』は81年公開。文明が滅び、一面の砂漠を暴力が支配しているというビジョンを実写映像としてつくりだした。『北斗の拳』をはじめ、以降の作品に多大な影響を与えたことで知られている。

『マッドマックス3 サンダードーム』については割愛する。

しかし、シリーズが描いた「荒廃した未来」は、この30年ですっかり手垢にまみれてしまった。いってみれば、そんな未来図は過去のものとなっていた。しかし、『怒りのデス・ロード』は、圧巻のビジュアルと綿密なディテール、そして強固なシナリオで、ふたたび「誰も観たことがない未来」を描き出している。


何をおいても、見た目の迫力がとんでもない。

フュリオサの愛機「ウォータンク」をはじめ、登場するヴィークルの数々はあきれ返るほどの迫力だ。ヤマアラシのようにとげが生えたバギー「プリマス・ロック」、イモータン・ジョーの玉座・二段重ねの「ギガホース」。どれもこれも見ているだけで知能指数が下がりそうなむちゃくちゃな改造車だ。

中でも強烈なのが無数のスピーカーを植え付け、ギタリストをぶら下げた「ドーフ・ワゴン」。そこで演奏されるギターは総重量60㎏、火炎放射機能を搭載している。こんなものは人間の想像力を越えている。悪夢の中でしか見られないような改造車の数々は、すべて実際に作っている。そして実際の砂漠を走らせて撮影したというのだから、正気の沙汰ではない。まさにマッド。製作陣がすでに狂気に憑かれている。

その証拠に、序盤にプリマス・ロックが体当たりしたときの破片がずっとウォータンクに刺さったままだ。CGで表現されていたとしたら、こんなアクシデントは起きていなかっただろう。

特撮やCGに頼らず、バイオレントなシーンを実際に演じて撮影するのがオーストラリア流だが、車から車に飛び移るぐらいは当たり前、車から突き出たハシゴに捕まったり、あまつさえ地面スレスレまでしならせたり、ハラハラどころではない描写が続く。

ええい、いちいち書いていたらきりがない。一台作るのにどれだけ金と時間がかかるんだという車両をドカドカ爆破するさまは、そのあまりのスピードで感動を置いてけぼりにし、笑いしか出てこない。


もちろん、イカれた世界を表現しているのは車だけではない。キャラクターの作りこみも半端ではないのだ。

片腕のフュリオサをはじめ、全身真っ白なウォーボーイズ、そして出るわ出るわの異様なキャラクターたち。核戦争があったことが劇中で名言され、放射線が世界中に甚大なダメージを与えたことが、彼らの姿から見てとれる。

特にイケメン俳優ニコラス・ホルトが全力で挑んだニュークスは戦いの中で死ぬことこそ最大の名誉と考えている、世紀末を象徴するような軍団の一員。知性の欠片も感じられない見事な演技だ。

そんなニュークスの内面の変化こそ、本作の物語の全体像を示唆している。マックスという真の勇気を持ったものに触れることで、暴力しか知らなかった者たちが別の生き方を模索し始める。あるいは、ニュークスの変化はマックスの血によるものなのかもしれない。そんな含みも持たせている演出の厚みには感服だ。

本作の悪役であるイモータン・ジョーを演じるのは、第一作でも暴走族のボスを演じたヒュー・キース=バーン。その存在感は画面に映るだけで観客を威圧するほど。暴君としてのカリスマを全身から発している。『2』のヒューマンガスと並び、映画史にその名を輝かせる悪役となった。

ジョーは必死に子供を求めている。ジョーのふたりの息子は、いずれもジョーにとって満足のいく世継ぎではないからだ。あれほどの統治機構を作り出した本当の目的は、「子孫を残したい」という生物として当然すぎる欲求だったのだ。あのマスクの下に隠されたジョーの素顔がどんなものか、思いをはせずにはいられない。


もちろん、本作のストーリーテリングは、主役のトム・ハーディの存在あってこそだ。

マックスは元警察官で、荒廃した世界の中をひたすらさまよう存在として描かれている。そしてなんと、本作の舞台設定は劇中で言う「石油戦争」から45年が経過しているのだという。ということは、マックスは少なくとも60代後半。年齢設定がむちゃくちゃだ。

もちろん、これは設定がちゃんとしてないから……というわけではない。マックスは一個の人間を超越した、いわば神話英雄として描かれているように思う。

本作のマックスは、救えなかった人々の幻想に苦しめられている。弱いものを踏みつけて生き延びたという罪は、本作の世界ウェイストランドに生きる誰もが抱えるものだ。自分が生きようとすれば、誰かの命を奪わずにはいられない。その点では、ジョーもフュリオサも、そしてマックスも変わらない。

その罪は、生き続けることでしかあがなえない。死んでいった者たちの命が無駄ではなかったのだと証明することが、生き残ったものの使命、そして贖罪なのだ。

その証拠に、本作で2度登場する食事シーンは、いずれも生きている生物を調理もせずにそのまま食す。マックスたちはほかの命を直接むさぼることでしか生きられないのだ。

だれもが抱えている罪の代表者であるマックスは、冒頭のナレーションの通りただ生きることだけを目的に荒野をさまよう。いかに贖罪すべきかを人々へ伝える、いわば半神半人の英雄だ。

そんな超自然的な存在感と生身の力強さを、トム・ハーディは見事に発揮している。もともと何を考えているのかわからない超然とした表情が魅力的な俳優だが、その雰囲気はこの役にぴったりハマっている。

セリフの量こそあまり多くないが、そのぶん肉体すべてを使ったアクションは見応え抜群。一方で、棒やすりを延々ゴリゴリこすり続けるコミカル演技もお手の物。しかし、そんなコミカルな行動も、すべてが「生きる」という根源的な欲求に根差しているのも見事だ。


セリフの少ないマックスに代わって、実質上の主役として物語をけん引するのがシャーリーズ・セロンの演じるフュリオサだ。

隻腕でスキンヘッド、しかも額には油と煤を塗りたくって真っ黒。モデル出身の美人女優とはとても思えないすさまじい役作りである。スキンヘッドはセロン自身のアイデアだというから、さらに驚きだ。

演技の大部分は、バケモノのようなタンクローリー・ウォータンクの運転席で行われる。すなわち彼女の目が向いている方向こそ物語が進む方向ということだ。

彼女の過去に関して多くが語られることはないが、ビジュアルだけでも相当の艱難辛苦を乗り越えてきたことがわかる。そんな彼女が、自分の力で脱出を決意したのだ。『シンデレラ』で語られていた通り、自分のありのままを認めることが最も勇気を必要とする。フュリオサが劇中で下す最大の結論は自分の過ちを認め、本当の使命と向き合うこと。彼女の行動は、後の世界では伝説として語り継がれるに違いない。

そして、そんなフュリオサが必死に守ろうとしている女たちは、なるほどこんな希望のない荒野ではまさに宝物だ。美しい肌に艶めく髪。ジョーならずとも魅了されそうな彼女たちは、後半に連れて生きる意志を持ち始め、魅力を増していく。彼女らを演じているのもそうそうたる顔ぶれである。今後、主演級で顔を見かけることだろう。


本作のストーリーは、プロットとしては非常に単純だ。虐げられてきた者たちが、自分たちの「本当のふるさと」へ向かって脱出する。「出エジプト記」のような、典型的な民族叙事詩である。

だが、極限までシンプルなプロットに、サービス精神過剰のアクション、緻密な背景設定、数えきれないほどのニュアンスを盛り込んで、観客をまったく飽きさせない作りになっている。

そのどれもが、「むちゃくちゃをするな!」と驚くことはあれど、「今なんでそんな行動したの?」とか、「今のセリフどういう意味?」とか、そんなふうには思えない。狂気に満ちた世界でありながら、登場人物の感情も行動も、すべて観客が共感できるように作られているのである。

それを支えているのは、圧倒的な情報量のディテールだ。美術のひとつひとつに膨大な背景設定が反映され、観客に訴える。知らず知らずのうちに、「きっとこんなことがあったんだろう」と想像力を刺激され、それが燃料となってますます物語にのめりこんでいく。

たとえば、ジョーの国では車のハンドルは宗教的シンボルでもある。それ単体で意味を成すものだから、車から取りはずして使うし、車に乗るときには必ずハンドルを取り付ける、という儀式が行われる。ジョーの作り上げた宗教の根幹であり、ニュークスにとっては誇りあるシンボルであり、フュリオサにとっては自分の分身ともいえるウォータンクそのものだ。そんなふうに、何重もの意味がハンドルひとつに集約され、しかも劇中のサスペンスにも反映される。これらはセリフでは一切説明されないのに、自然と観客に伝わってくるのが素晴らしいのだ。


いろいろと書いてしまったが、人によってはまったく違った見え方をする多彩さを本作は含んでいる。フュリオサが女性の権利のために戦う物語と見る人もいるだろうし、ニュークスが成長する物語と見ることもできる。誰もが自分の人生を投影し、そして製作陣からのきわめてシンプルなメッセージを受け取ることだろう。

もちろん、そのメッセージは「生きろ」の一語に他ならない。そしてそれこそ、すべての人間にとっての最大の使命なのだ。

そしてそんな難しいことを考えなくても、上映中の120分はただひたすら楽しく、観賞後ははっきりと心の中に何かが残る。

もしも年に一度しか映画館に行かないという人がいたら、2015年のその一本は『マッドマックス怒りのデスロード』にすることをお勧めしたい。


2015/06/27追記

4DX吹き替え版で鑑賞。これほど4DX鑑賞に向いた映画もない。特にアイドリングの振動が座席で共有できることによる没入館はとてつもなく効果的だ。すばらしい体験だった。


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