ストレイヤーズ・クロニクル

日本映画は、ハリウッド映画に比べればごく少ない予算で製作されている。自然、人間ドラマやコメディといった、スケールの小さな題材が選ばれがちだ。

その中にあって、アメコミ原作ものなどが存在感を発揮している超能力アクションというジャンルに挑んだのが本作だ。そのチャレンジ精神だけでも、大いに評価したい。


90年代はじめ、人間に超能力を与える実験が行われていた。

主人公・昴(岡田将生)は、神経の伝達速度を極限まで高め、3秒先の未来を見ることができる。しかしその代償に、脳細胞は過剰なストレスによって萎縮し、20歳前後で「破綻」を迎える運命を背負っていた。

同じく破綻の運命を背負った良介(清水尋也)、亘(白石隼也)らとともに渡瀬(伊原剛志)の仕事を請け負っていた昴たちは、渡瀬から犯罪集団〈アゲハ〉の捕獲を命じられる。

昴たちは〈アゲハ〉のリーダー・学(染谷将太)と接触するが、学は意外な真実を告げる。なんと彼らは昴たちと同様、実験によって生み出されたた特殊能力者であり、寿命による死を目前にしていた。

昴たちは犯罪を続ける〈アゲハ〉たちを追うが、やがて事態は予想もしない方向へ向かっていく……。


特殊効果を多用した超能力アクションは、ヒーロー映画で多用されている。技術面ではリードしているとは言い難い日本映画で、いかにしてそうした描写を実行するかの工夫を凝らしたことが見て取れる。

といっても、むしろ描写の不徹底ぶりのほうが気になる。たとえば、登場人物のうち二人は人間の限界を超えた超高速で動くことができるという設定だが、彼らが移動するときは一瞬で画面から姿が消える。だが、チーターだろうがF1カーだろうが、音速を超える速度で移動していても、目に見えないということはない。『X-MEN: フューチャー&パスト』や『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』での超高速描写も、観客に違和感を抱かせずにいかに自然に見せるかという点に腐心していた。特に気になるのは竹藪の中で二人が戦う際の描写だ。超高速で走ることができたとしても、超高速で落ちるわけはない。自由落下の速度まで早まって見せられるため、単に演出で嘘をつかれているのだという気分が拡大してきてしまう。リアリティを越えた描写をするのなら、その嘘のラインを上手にコントロールしてほしい。


特殊な能力を持った超人同士がふたつのグループに分かれて戦う、というのは『甲賀忍法帖』に代表される忍法ものや、アメコミ「X-MEN」に見られる形式だ。本作もそうしたシナリオ構造に、青春ものの要素を織り交ぜて、生きる意味を見失ってしまった若者がもがく姿をクローズアップすることに挑戦している。

とはいえ、彼ら超能力が障害として機能したり、物語を進める役に立っているかというとかなり疑問である。良介の超記憶能力が発動するのは単にネットニュースの内容を思い出すだけだし、隆二の能力は終盤のサスペンスを作るために足に微妙なけがをさせるという処理で使えなくしていた。碧に至っては、特殊能力を使うのは本筋に関係ないシーンひとつだけだ。後から調べて「そういえばそんな描写があった気がする」と思い出す程度。明らかにストーリー作りにとってもてあましている。そもそもが、後述する理由によって、登場人物のほとんどが必要ないせいではあるのだが。


特筆すべきは、若手実力派俳優をそろえた演技合戦。岡田の意志を発揮するときの目つきと、対照的な染谷のどこか虚無感のある表情は本作でも見事な見せ場を作っている。

しかし、登場人物の演出は一様にリアリティを欠いているような印象を受ける。「絶賛トリップ中」などのセリフは文章で読めばちょっとしたユーモアに見えるのかもしれないが、生きている役者が口にすると「そんな言葉、こんな状況で使うか?」という印象だ。誰かが特筆しておかしく見えるわけではなく、登場人物全員が現実味のない印象を受けるため、おそらくはこれは狙ってつけられた演出だろう。あと数年で人生が終わってしまうという恐怖を抱えた彼らにとっては、何を話すのも真面目ではいられず、どこかで軽い調子になってしまうということを表現したかったのかもしれないが、これでは染谷将太を際立たせる効果が薄まってしまっている。世界全体がこの調子なのだろう、という印象だ。特に、伊原剛志ら常識ある世界を象徴するはずのキャラクターも、リアリティのない、演劇的なセリフ回しと動作を見せるため、いよいよ画面全体のリアリティが損なわれ、同時に彼ら特殊能力者の特異性も弱まっていく。


物語は昴の視点で進んでいくが、むしろ話の中核は学の抱える葛藤にある。「普通の人のように生きていくことができない」という悩みに、さらに付け加えられる恐るべき真実。登場人物たちがそれに直面したとき、どのように行動するかが見どころだ。

というより、実質的には昴は本作で描かれるドラマに関係がない。昴だけではなく、登場人物の大部分が無関係だ。彼らには自分の動機や目的といったものが欠如している。唯一、〈アゲハ〉の面々には渡瀬に復讐したい、という動機を持っているが、それも果たして彼を殺すことで遂げられるのか、どうにも納得できない。〈アゲハ〉はほとんど衝動的に犯罪を行っているだけで、都会に放たれた野獣とそう変わりがない。昴たちのチームはもっと深刻で、彼らには一切の目的がない。一緒に穏やかに暮らしたいというのはかなり早い段階で達せられている。隆二は最初に会ったときこそ「ほっておいてくれ」というくせに、すぐに仲間たちと打ち解ける。彼らには衝動すらなく、ただ「昴にい」に頼ることしかできない。

そんな彼らだから、対立軸もあやふやだ。案の定、チームどうしが戦うような展開は早々に消え去り、渡瀬が仕掛けていたある計画を止めることに向かっていく。のみならず、序盤からして特殊能力者とは関係がない自爆テロリストを渡瀬が議論をごまかすことで止めるなど、観客が期待している超能力アクションはろくに見られない。岡田がトレーニングで身に着けたという格闘技術も、まるで効果を発揮していない。

セリフ回しも不可解だ。たとえば序盤、昴が沙耶(成海璃子)に会いに行くシーンでは、「つらくないか?」という昴の質問に対し、やってきた沙耶が「大丈夫」と答えてから、苦しそうに抱き着く。そこにどんな感情が流れているのか、読み取れずに混乱してしまった。無理をして大丈夫と答えたが、昴の顔を見ると抑えきれなくなったということかもしれないが、とてもそれがわかるような演出とはいいがたい。序盤の演出からしてこうだから、終盤で亘が洗脳に苦しむシーンも、「お前を殺す! ダメだもう苦しい! 助けて! でもお前が悪い! この薬があれば大丈夫! 殺してやる!」と、洗脳に苦しんでいるというよりも単に言動が支離滅裂なように見える。洗脳とそれにあらがっているときのニュアンスの違いがあらゆる方法で表現されていないように感じた。

筆者の個人的な印象かもしれないが、かろうじて感情移入ができるのが学ひとり、という印象だ。何せ、自分だけの葛藤や目的を持っているのが学だけだからである。そのうえで、自分が死ぬと人類の80%が一緒に死に、生態が変容してしまうというのが学にとっては障害として設定されている。筆者からすれば、学ひとりがこんなに苦しむぐらいなら、20%は残るんだし、ウイルスが広がっても構わないのではないか、とすら思ってしまった。もともと人間社会を恨んでいた学が、何のきっかけで体内のウイルスの拡散を抑えようと思ったのか、まるで伝わってこない。単に、それは悪いことだから、という理由で否定されたようにしか見えない。

超能力ものを見る楽しみは、アクション以上に価値観の変容、違った考え方に触れることで観客の持つ倫理観が揺さぶられることにある。同じく染谷が出演した『寄生獣』と比べて、あまりにそうした点への掘り下げがされていないように思った。出演した俳優はみんな演技が下手なように見えるし、原作はつまらない話なんだろうと思ってしまう。ゲスの極み乙女。の主題歌・挿入歌も不自然な使われ方をしている。撮影や編集、美術に気が回せるほど、作品に集中することができない。筆者は観賞中、主に「ポップコーンをもっと大きなサイズで頼めばよかった」という、内容に関係のない後悔で頭がいっぱいだった。この映画が公開されたことで、プラスになった人はいないのではないかとすら思う。


超能力アクションは日本のアニメや漫画ではほとんど市場の中心的な立ち位置を占めているようなジャンルだ。それを映画でも表現しよう、という意気込みは、高く評価したい。


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